
紙メディアが価値を決めていた時代から、AIが見本になる時代へ
『プラダを着た悪魔』の続編を観る前に、2006年版を見直した。
最初に観た頃は、華やかなファッション業界を舞台にした、理不尽な上司と若い女性の成長物語として観ていた気がする。
けれど、あれから20年が経った今、同じ映画はまったく違うものに見えた。
これは、ファッション業界の映画であると同時に、紙メディアがまだ社会の価値観を編集していた時代の映画だったのだと思う。
そして、AIによって仕事の意味そのものが揺らぎ始めている今だからこそ、ミランダのいる世界が、以前とは違った重さで迫ってくる。
僕たちの仕事は、いつの間にか全部、真似事になりつつあるのかもしれない。
紙の雑誌が、価値を決めていた時代
映画の舞台となるファッション誌「RUNWAY」は、実在する『VOGUE』を思わせる、ハイクラスの雑誌として描かれている。
そこに集まるのは、一流の編集者、一流のカメラマン、一流のモデル、一流のスタイリスト。そして、そのすべてを統率する編集長のミランダだ。
今観ると、この設定自体がすでに時代を感じさせる。
当時の雑誌は、単に商品や流行を紹介する媒体ではなかった。何が美しいのか、何が新しいのか、何を欲しいと思うべきなのか。そうした価値観を選び、編集し、社会に提示する力を持っていた。
劇中で、アンディが自分とは無関係だと思っていた青いセーターについて、ミランダがその色の流行がどのように生まれ、彼女の手元に届いたのかを語る場面がある。
アンディは、自分はファッションの世界とは距離を置いているつもりだった。けれど実際には、彼女が何気なく選んだ服さえも、どこかで誰かが選び、意味づけし、広めた結果だった。
あの場面で示されるのは、ミランダの嫌味な知識量だけではない。
雑誌という紙メディアが、世の中の選択肢そのものを編集していた時代の力である。
2006年は、何かが切り替わり始めた時代だった
『プラダを着た悪魔』が公開された2006年は、今から振り返ると、社会やメディアの価値観が大きく変わり始める境目にあったように思う。
華やかな都市で成功すること。大きな組織に入り、厳しい競争を勝ち抜くこと。理不尽な要求に耐えながら、それでも一流の世界に近づいていくこと。
そうした生き方には、まだ確かな説得力があった。
一方で、そこから距離を置き、自分らしさや生活を守ろうとする考え方も、次第に同じ高さで語られ始めていた。
ミランダの世界に身を置き、仕事によって自分を作り替えていくのか。
それとも、そこから降りて、自分の感覚を守るのか。
アンディの選択は、その境目にある。
そして、その後の20年で、メディアの中心は紙からデジタルへ、さらにSNSやアルゴリズムへと移っていった。今では、生成AIが文章も画像も企画も作り始めている。
この映画は、紙の雑誌がまだ圧倒的な権威を持っていた時代と、その後に訪れる大きな変化の直前を映しているように見える。
ミランダは、ただの理不尽な上司だったのか
20年ぶりに見直して、最も気になったのは、ミランダの理不尽さが今の自分にどう映るのか、ということだった。
もちろん、現在の基準で見れば、彼女の働かせ方は到底そのまま肯定できるものではない。
新人であるアンディに十分な説明もないまま、極端に高い要求を突きつける。私生活を犠牲にすることを当然のように求める。部下の人生や感情よりも、仕事の完成度を優先する。
ナイジェルの「実生活が壊れ始めたら、昇進のサインだ」という言葉にも、今ならまず「それは駄目だろう」と思う。
それでも、完全には笑い飛ばせない。
なぜなら、あの世界には、確かに自分よりもはるかに高い基準に触れる経験があるからだ。
アンディは最初、RUNWAYを馬鹿にしている。ファッションに興味もなく、そこに人生を懸けている人たちをどこか軽く見ている。
しかし、ミランダやナイジェルの世界に触れることで、自分が知らなかった基準、自分では想像もできなかった努力、自分の甘さを突きつけられていく。
そこには理不尽さがある。搾取もある。人を傷つける構造もある。
けれど同時に、自分がそれまで持っていた物差しでは測れない、本物の仕事の水準も存在していた。
理不尽さを肯定したいわけではない
ここで言いたいのは、昔のような働き方に戻るべきだということではない。
理不尽さによって壊れてしまう人はいる。権力を持つ側のエゴや暴力まで、「成長のため」という言葉で正当化してよいはずもない。
ただ、理不尽さをなくしていく過程で、厳しさや緊張感、自分の未熟さを思い知らされる経験まで、すべて遠ざけてしまっていないかとは思う。
自分が通用しないと知ること。
自分の判断が甘かったと気づくこと。
自分より優れた人間の基準に触れ、それまでの自分の殻が剥がれていくこと。
そういう経験は、決して気持ちの良いものではない。
むしろ、その瞬間には腹が立つし、逃げたくなるし、相手を理不尽だと思う。
けれど、後になって振り返ると、そこで初めて見えたものがある。自分が変わったと感じられる瞬間がある。
かつての仕事には、良くも悪くも、そうした壁が目に見える形で存在していた。
それを乗り越えるのか、そこから降りるのか。選択は厳しかったが、少なくとも自分が何と戦っているのかは分かりやすかった。
見えなくなった理不尽さ
現代では、かつてのような露骨な理不尽さは、規範や制度によって抑えられるようになった。
それ自体は、間違いなく必要な変化だと思う。
しかし、人間のエゴイズムや支配欲、優劣をつけたがる感情まで消えたわけではない。単に、見えにくい形に変わっただけなのかもしれない。
ミランダの理不尽さは分かりやすかった。
彼女は冷酷で、傲慢で、恐ろしく高い基準を持っていた。部下は何を求められているのかを嫌というほど思い知らされる。
けれど今は、誰が基準を決めているのか分からないまま、数字や評価やアルゴリズムに合わせて働かされることがある。
何が正解なのか。
誰に評価されているのか。
何を目指して成長すればよいのか。
それが曖昧なまま、ただ「適切に」「効率よく」「問題なく」こなすことだけが求められる。
目の前にミランダはいない。
けれど、それによって仕事が自由になったのかというと、必ずしもそうではない気がする。
それなりのものを作る仕事
会社の歯車にはなりたくない。
理不尽な上司に人生を捧げたくない。
無理をせず、自分らしく働きたい。
それは当然のことだと思う。
けれど、その先にある仕事が、ルール通り、マニュアル通り、過去の事例通りに「それなりのもの」を作るだけになってしまったら、どうなるのだろう。
誰でも同じようにできる仕事。
大きな失敗はしないが、大きな驚きもない仕事。
誰かが作った見本を、少しだけ整えて出す仕事。
それは、人間が担う必然性を少しずつ失っていく。
そして今、その見本を提示する存在さえ、先輩や上司や編集長ではなく、AIに変わり始めている。
AIが作った文章を参考にし、AIが作った画像を参考にし、AIが提案した構成をもとに、AIが評価しやすい形へ整えていく。
そうなったとき、私たちは仕事をしているのか、それともAIの作った基準の中で、真似事を繰り返しているだけなのか。
ミランダの代わりに、AIがいる時代
ミランダは恐ろしい人物だが、少なくとも彼女の判断には、彼女自身の審美眼と責任があった。
何を選ぶのか。
何を落とすのか。
何を美しいと認めるのか。
何を世の中に提示するのか。
その判断が正しいかどうかは別として、そこには一人の人間が背負う覚悟があった。
紙の雑誌とは、そうした人間の判断を束ね、ひとつの世界観として社会に提示するメディアだったのだと思う。
しかし今、私たちの前に現れる情報や見本の多くは、誰か一人の責任ある判断によって選ばれたものではない。
検索結果、SNSのおすすめ、閲覧データ、生成AIによる提案。
便利で速く、失敗も少ない一方で、そこには誰の覚悟も見えない。
人間が判断していた時代の理不尽さから解放された代わりに、私たちは、誰が作ったのかも分からない基準の中で、似たようなものを作り続けることになるのかもしれない。
それは、ミランダに怒鳴られるよりも、ずっと静かで、ずっと厄介な支配だ。
紙メディアが失われるということ
『プラダを着た悪魔』を観て感じたのは、紙の雑誌が衰退したという懐かしさだけではなかった。
紙メディアとともに存在していた、人間が責任を持って選び、編集し、価値として提示する仕事まで、私たちは手放しつつあるのではないかという不安だった。
もちろん、紙であれば正しいわけではない。雑誌の世界にも偏りや閉鎖性や権力構造はあった。
それでも、そこには「自分たちはこれを価値あるものとして世の中に出す」という意志があった。
編集するとは、本来、そういうことだったはずだ。
情報を並べることではない。
無数にあるものの中から、何を残し、何を捨て、何を届けるべきかを決めること。
その判断に責任を持つこと。
AIが大量に情報を作り、誰もが発信できる時代になった今こそ、その役割はむしろ重要になっている。
けれど同時に、私たちはその役割を、自分たちの手から少しずつ手放しているようにも見える。
僕たちは何に立ち向かうのか
『プラダを着た悪魔』の感想としては、随分遠いところまで来てしまった。
けれど、20年ぶりに見直して強く残ったのは、ミランダの理不尽さそのものではなく、彼女のいる世界にあった、人間の欲望と執念と審美眼の強さだった。
あの世界は決して優しくない。
むしろ、今の感覚では受け入れがたいほど苛烈だ。
それでも、そこには人間が人間を圧倒し、人間が人間によって変えられていく濃さがあった。
今、私たちはAIによって、仕事の効率化や安全性や均質さを手に入れつつある。けれどその先で、自分の仕事だと言えるものまで失ってしまうのだとしたら、それはあまりにも虚しい。
理不尽に耐えろ、という話ではない。
苦労を美化したいわけでもない。
ただ、自分の基準を壊されるほどの何かに出会い、自分なりの判断や価値観を作り直していくことなしに、人間にしかできない仕事は生まれるのだろうか。
ミランダに立ち向かうのか。
ミランダの世界から降りるのか。
あるいは、誰の顔も見えないまま私たちの仕事を均していくAIの基準に立ち向かうのか。
『プラダを着た悪魔』は、紙メディアがまだ世界を編集していた時代の映画である。
そして20年後の今、それは、人間が自分の仕事を取り戻すために、何を選び、何を捨て、何に抗うのかを問う映画として見えてきた。